あなたの身体はあなたのものだ

女性は細くて美しくて、いつまでも若くいるべき。胸がしっかりやってウエストが締まっていて、お尻が丸くてぷりっと上がっているべき。愛嬌があるべき、背は高くない方が良いでしょう、このメイクは男性受けしません………

 

などなど、女性の外見にまつわるそういった記事がバンバン上がっている。きっと女性たちは「美」を磨くのに苦労しているのだろう。

おわかりかと思うが、女性は絶えず美を求められ、その身体は自分のためのものではなくて、誰かに評価されるためのもの、という前提が無意識に私達へ刷り込まれている。そしてこれを守れる人が「美」を保ち、反対に守れなければ「女性とは思えない」とか、ブサイクとかブスとか怠惰等とスティグマを貼られる。

 常に他者からの評価を気にして、自分の身体が「不本意な」姿を押し付けられているにもかかわらず、自分たちはそれを美しさの一つだと信じて止まず、それを追い求め、時に同調圧力をかけて共有する。

コスメやダイエットに関心があればイケてる女子だ。もちろん「ブスで怠惰でデブで芋くさくてダサい女」はたくさんいる。イケてない女達を、イケてると思われる女達が嘲笑う。男はイケてると思った女をピックアップし、自分の獲物にする。

非常によくできた社会のバイオリズムというべきだろうか。まるで奴隷の競りのようにしか見えない世の中のはまだまかり通っている。

 ビリーアイリッシュは言った。「わたしがダボダボの服を着ている理由は、体型によっていちいち判断されることが嫌だからだ」と。そうだよ。身体は私のものであって、お前のものではない。しかし世間では、まことしやかに女性が美しさを保つのは必須であるかのように囁かれ、そしてそれを忠実に行おうと美容クリームを買ったり、アンチエイジングをしてみたり、ダイエットをしたり、サロンに行ってみたりする。自分が美しくなりたいと思うのは、裏を返すと「誰かに選ばれたい」という願望の現れなんじゃないか?

だがそもそも女性は選ばれるべき立場ではない。男女に上下の差はない。平等だ。だから、あなたはそもそも選ばれる立場じゃない。

 無意識のうちに女性たちは自分の地位を下げるような言動をとる。それはあまりにも長い間虐げられてきた歴史があったからであり、この間に自尊心や個人の権利が麻痺してしまったのである。差別を「当たり前」のことだと思い、差別に気が付かなくなっていたのだ。
 これはいけない、そういう気持ちで何かの気づきとなれば良いと思い、筆を取った。今後女性たちに求めることは、自分の身体の持ち主を自分に返す、というところである。

さっきも述べたが、あなたの身体は相手のものじゃないし、社会のためのものでもないし、誰かの期待に応えるためのものでもない。

私は元カレが髪を染めて欲しくないというたり、ピアスを開けてほしくないというのでその間の黒髪にし、ピアスも開けないままにしていた。しかし本来は、髪の毛をハイトーンにしたいし、短くしてみたいし、ピアスも死ぬほど大量にあげたいと思ってた。自分の身体だから好きなようにすべきだともわかっていたけれど、どうしても彼の話を聞いてしまうと、「彼の期待に応えたい」と思ってしまい、自分の身体の権利を手放してしまった。しかし時間は平等にやってきて自ずと好きなファッションができなくなる時期(就職や就活)がくる。その時に後悔しても遅い。それ以後、自分の髪の毛を派手にしたり、ピアスを沢山あけたりした。周りには「いかつい」とか「ヤンキーみたい」と言われたけれど、私は気にしない。この身体は私のものであって、男性にモテたいとも思ってないし、あなたに好かれたいとも思ってない。しかもピアスをたかだかが十個開けただけで、髪の毛をハイトーンにしただけで、なぜ私がヤンキーだと言われなければいけないのか。渋谷や原宿に行ってみれば、髪の毛がピンクだったり、ユニコーンカラーだったり、ピアスは耳どころか指にも鎖骨にも顔面にもあいてる人がいるじゃないか。

そういう人が来る度に「お前気持ちが悪いな」「ヤンキーだね」と言うんでしょうか?多分あなたの根気は続かないでしょう。それくらい多くの人がそこらじゅうを歩いていますから。

個人的に、ピアスを大量にあげている人を見るといい時代が来たなぁと思うのだ。それはなぜかというと一昔前までピアスはヤンキーが明けるもの、という認識が強かった。しかし、最近のファッションを見ると、髪の毛を派手にする以外にも、尋常じゃない高さのヒールを履いたり、ピアスをたくさん開けたりすることが流行りになっている。

 

そうした人達が増えてきたからか、タブー視の近かったものが、若者達の間で流行るファッション文化から、ラフなものになりつつあるのだと思った。

 しかしながら、谷間を強調したファッションだったり、ウエストを出したファッションだったり、足を長く出したファッションは尻軽ビッチ下品などと言うレッテルを貼られて、非常に差別的侮蔑的な言葉をかけられたりするケースが多い。ちょっと谷間が出ている服を着ただけで性的なハラスメントを受けなければいけなかったり、ネットで気持ちの悪いことを言われたり、または時にそういったファッションがいけないと批判する声がある。でも彼女の身体であって、お前の身体ではないし、お前のために谷間を見せてるわけでもなければお前のためにウエストを見せてるわけでもない。別に胸やウエストを出してるからといって裸体歩いている訳ではないし、周りの人をセックスに誘ってるわけでもない。ただのファッションだ。こうしたファッションのあり方について、「ずいぶん下品になった」とか、「非常にだらしがなくなった」と判断するのは些か主観的で早計なことだと思われる。もちろん、上の世代の方達は足を出すことでさえも抵抗があった時代と聞いているから、そうしたネガティブな声だったり、過剰に拒否反応を示す声はわからなくもないが、その足を出すことさえもどんな心理がはたらいていたのかを考える必要がある。

 

私の好きなYouTuberが谷間もファッションだと言っていた。彼女のファッションはギャルチックだが、似合っているしとても自信があって素敵だと思う。

 私は個人の身体の見せ方は個人が一番わかっており、個人が一番美しいと思うものを判断して行えばいいと思う。時と場合さえわきまえていれば何の問題もないはずだ。

にもかかわらず、なぜ服装の批判が起きるのか。そして主にその批判を受けるのは女性なのかについて考えていきたい。まさしく、これは差別である。

ファッションはいつも女性のために開かれてるようなものである。女性は常に美しくあることを要求されている。

その美しさとは、男性の好みに合うものであり、彼女たちが本来秘めている魅力を黙殺するものである。

 なぜデコルテがあらわになった服を着ただけで、こんなにも批判を受けなければいけないのか。なぜウエストを出してるだけでビッチと呼ばれなければいけないのか。なぜ脚を出しているだけで性的に奔放だと言われなければいけないのか。なぜ自分の身体なのに、社会の声で、美しさと理想の女性か否かを勝手に判断されなければいけないのか。そしてこれがいつまで続けばいいのか。女性がありのままでいることをいつまで許さない社会なのか。

 私はとても背が高い。大体174センチ近くある。だが、ヒールを履くのが大好きだ。なぜなら、私の足にコンプレックスがあって、つま先立ちした方が脚が長くてすらっと美しく見えるからだ。こうしたヒールを履くことによって、私の好きなパンツスタイルがめちゃめちゃかっこよく完璧に決まるのだ。
ただ、日本で履く時は非常にためらう。私がちょっと(5センチ程度)のヒールを履こうものなら180センチの女になる。それでもいいさと思っていたけれども、いざ外に出てみると人々の非常に不躾で、非常に失礼な目線によって私の尊厳は傷つけられる。

皆一様に私の顔を見ると、おかしなものを見てるかのように首を動かして足元を見、再度私の頭のてっぺんを見る。中には首を90度回転させてバケモノを見るかのように、振り向き歩きながら、私を舐めるように見る人がいる。電車に乗っていると一定数の人がじーっと私を見つめる。そして目線を感じる。つま先から頭まで見ていること。なぜ私がこんなに見られなければいけない?
こういうことをされる度、自分が好きや格好を満足にできず非常に不愉快に思い、ジャッジされてる気分になり怒りが湧く。

私は見世物ではないのに、まるで動物園の檻の中に入った動物のように物珍しそうな顔と変なものを見たような目で見られる。ヒール履いている時の私は強い。最近のどの私よりも一番美しいと思っているし、かっこいいなと思ってるし、モデル気分で街中を歩いている。私はどこの誰よりも、今自信を持って歩いていると思う。

 しかし、自分の家から最寄りの駅に行くまで、そのようなことをされて目線でレイプをされる気分になる。非常に不愉快だ、非常にやるせない。ひとたび新宿や渋谷、品川など東京に出ると誰も私のことを見なくなる。当たり前でしょ、といった顔でみんな颯爽と過ぎていく。新宿なんて素晴らしい個性の塊だ。色んな格好をした人たちがスマホを握り締めてトテトテと歩いていく。私は新宿が大好きだ。誰も見ない、本当に誰も気にしない。

そして決定的な出来事はアメリカに行った時に起こった。

 海外だから、私より背の高い人はたくさんいたのだが、驚くべきことに日本では「デブ」と言われる体型の女性達が、自分のボディラインが出るワンピースやショートパンツやミニスカートを履いたり、高いヒールを履いたりして歩いていた。ファッション売り場に行ってみたら、スレンダー体型と黒人のマネキンとマタニティーのマネキンと、そして恰幅のいい体型のマネキンがあった。

私は感動した。心の中で拍手喝采だった。「さすがアメリカ多様の国ね」と。ただでさえ、人種毎で分けるのも素晴らしいと思ったが、一番は太めのマネキンがあるとは!

太めのマネキンがある事の意義とは、ファッションがスレンダーの女だけが楽しむものではなく、開かれて、誰にも平等で楽しむ権利があるということを知らしめることだ。

多様な体型なのは食文化や遺伝子的な問題もあるかもしれないけれども、一人ひとりが自信を持って楽しそうに街を歩いていたし、セルライトだって隠さずあらわにし、ニコニコしながら歩っていた彼女達は皆最高だった。
この機に乗じ、私は初めて、今までで一番高いヒールとあまり着たことのない丈のショートパンツデビューしてみた。初めて人前でショートパンツを履いてハイヒールで歩いてみたらすごく気持ちが良く、嬉しくなった私は、本当に自分の好きなファッションができて、心の底から楽しくなり自分が好きになった。どんなに好きな格好をしても、誰も気にとめない。誰もジャッジしないから!しかし、また日本に戻れば、ジロジロと見られて、アメリカで試したスタイルで歩こうものなら、きっとなんでデブが、なんであんな大女が8センチのヒールを履いて歩いてるんだと言われただろう。

 私はかねてより身体的なコンプレックスが多く育ってきた。生まれた時から背が高かったし、以来身長がコンプレックスでずっと悩んでいた。そんな私が自信を持って背筋を伸ばして歩くようになったのはついここ数年の間の話。それまでの苦痛といったら耐え難いものだった。十何年もの間コンプレックスを抱えながら歩いてきていた人間だからこそ、ジャッジされるのには敏感だ。

 

 

そして背が低くて甘えられる女がモテるとか、黒髪で二重で可愛らしくてあざとい女がイイとか、巨乳がいいけど谷間は見せるなとか、脚は出すなとか露出が多いと尻軽だと思われるとか……

 女性は清楚でフリフリの洋服を着てほしいだとか、ダボダボの服を着て華奢さを強調してほしいとか、ヒールは低めなどと女性のファッションにオーダーする声が多いこと多いこと。そしてそれを煽ること煽ること。

  世間全員に言いたいが、彼女がどんなファッションしてようが、どんなみてくれしてようがどんな生き方してようが、それについて簡単にブスとかモテないとかおかしいとか言わないでほしい。そして、平気で判断できる自分を大いに恥じてほしい。この恥ずかしさというのは、人の親をコキ下ろすのと同様の恥ずかしさであって、触れてはいけない所にずけずけと入り込んで荒らして貶して自信を喪失させるという、レイプに等しい行いだ。

人間として許されない程恥ずかしいことだという自覚を持ってほしい。

 

 自分は自分、人は人。この言葉は現代になって、より一層輝きを放ち、重要な言葉になっている。お願いだから、もう二度と「こうであるべき」を押し付けないでほしい。

そしてこれを読んだあなた方は、そうした抑圧に屈せず、自分のなりたい姿に変身してほしい。皆美しい。自分の好きなスタイルになってみて、自分の色んなテイストを楽しんでほしい。歳だからといって諦めるのをやめてほしい。細くても太っていても平坦な身体でもメリハリがなくても、あなたはあなたにしかない魅力を持っている。

自分の今を大切にして、自分がなりたい姿、挑戦したいスタイル、自信をつけたいことがあれば是非追及してほしい。

 そして、ファッションは何もスリムな女性だけに与えられた特別なものではなくて、全ての女性たちに開かれたものであり、すべての女性は好きな格好をする権利がある。

それはあなた自身があなたの身体を所有する権利があるからで、誰かに判断されるようなものではない。

日本は特別、外見についてとやかく言う国だし、すごくそれについて絶えずスティグマを貼り続ける文化がある。自分のしたい格好やりたいようなことをして傷つく人もいれば、ネガティブになる人がいる。

自分らしくいることが大事だと言う割に、らしくさせない、生きにくい国だ。

でも私はあなたの味方だし、私はあなたが今の自分を愛することを心から望んでいます。どんな格好をしたっていい、どんな体型でもいい、どんなメイクをしたって、どんなにピアスを開けまくったって、どんな髪にしたってあなたが「私らしい格好をできた」って思うことが重要であって、自分を否定し続けることでない。

自分の体をこよなく愛することが当たり前になる世の中であってほしいと思う。ダイエットだけで、あなたが魅力が増すとは思えない。二重になっただけで、あなたの魅力が増すとは思えない。社会のこうあるべきという強い圧力に隠されてしまった、あなたの身体を見てほしい。あなたの欲望と願望を思い返してほしい。そこがあなたの本当の美しさと、あなたらしさである